「今日の飯、味薄いし手抜きだろ。正直まずい」
夕食の席で夫の裕介が箸を置きながら言った。私は介護の合間に作った料理を思い浮かべ、謝った。
「ごめんね。お母さんの介護の合間に作ると、手の込んだものは難しくて。次からはあなたの分、味付け濃くするわ」
「はあ、言い訳かよ。介護してるくらいで飯も作れないのか。家にいるんだから、それくらいできるだろ」
「最近お母さんの体調が不安定で、疲れてるの。夜中に起きることも増えてるし。あなたの母親なんだから、少しは手伝ってほしい」
「はあ?俺は仕事してんだよ。それに介護だってやってるだろ。風呂に連れて行ってるし、飯も運んでる。車椅子も押してる。これ以上何をしろって言うんだ」
「確かに移動の補助は助かってるわ。でも、お風呂は連れて行くだけ。食事も運ぶだけ。それは介護じゃなくて、ただの手伝いよ」
「はあ、なら介護って具体的に何だよ」
「夜中の対応とか、通院の付き添いとか、薬の管理も一人じゃ大変なの」
「それ全部、女の仕事だろ。俺に何をさせたいわけ?」
「だから、介護を手伝ってって言ってるの」
「介護はもうしてるって言っただろ。大体、介護してるくらいで俺に恩着せがましく言うなよ。お前も母さんも食わせてるのは俺だぞ。今日だって残業だったんだ」
「それは感謝してるわ。でも――」
「でもって時点で感謝してないだろ。俺だって疲れてるんだ。仕事から帰ってきて、ゆっくりする時間も欲しい。それに、仕事してる中で俺は十分やってる。お前が勝手に完璧主義なだけだろ」
「分かった。もう何も言わないわ」
「家にいるんだから、介護くらいしろっての。誰のおかげで生活できてると思ってるんだよ」
その夜、私は義母の部屋に行った。
「昨日も夜中に起きて、看病してくれてありがとう。あなたがいなかったら、私はどうなってたか分からないわ」
「大丈夫ですよ、お母さん。夜に具合が悪くなることはよくありますから」
「でも、本来は息子がするはずのことよ。それなのに、あなたに任せっきりでごめんなさいね。あの子は昔から自分のことで精一杯で、周りを見ようとしないの。私の育て方が悪かったわ」
「そんなことないです。裕介さんも仕事で疲れてますから」
「あなたは優しいのね。でも、無理しないで。私のことは気にしないで。あなたも自分を大事にしてほしいの」
「ありがとうございます」
数日後、義姉の朝子さんから電話がかかってきた。
「ねえ、裕介、あんたちゃんとやってるの?」
「なんだよ、姉ちゃん、急に」
「お母さんから聞いたんだけど、あんた介護全くやってないんだって」
「はあ?なんだそれ。ちゃんとやってるよ。週末は買い物も行ってるし」
「それ、介護じゃなくてお手伝いだから。あいつと同じこと言うなよ」
「そりゃプロの姉ちゃんから見れば、しっかりしてないだろうけど、俺は素人なんだから」
「素人ね。じゃあ、一般的な介護の話だけど、あなた、お母さんが飲んでる薬、何種類か分かってる?」
「あ、うーん。けど、それは飯食わせてる奴の方が詳しいだろ」
「なら、通院の付き添いは?夜中の対応は?」
「あのさ、なんでそこまで俺がやる必要があるの?家にいるんだし、俺だってできる限りで介護してるから」
「あなたが言ってることは、介護の入り口にも立ってないわ」
「またそれかよ。だからプロから見たらそうなんだろ」
「あなた、妻が同じこと言っても聞かなかったんでしょ?妻は介護師じゃないわよ。あなたと同じ素人よ。私の言うことはプロだからって聞かないのに、プロじゃない妻の言うことも否定する。矛盾してない?」
「いちいちうるさいんだよ。俺だって働いてるんだ。仕事と介護の両立って難しいんだぞ」
「妻はそれをずっとやってきたのよ。しかも実家もない中で、誰にも頼れずにね」
「あいつは仕事してないじゃん」
「介護のために仕事をセーブしてるのよ。一時はあなたと同じように職場に行きながら介護してたじゃない」
「女は家にいるんだから、それくらい当然だろ。俺には仕事があるんだ。稼ぎがなきゃ生活できない」
「呆れた。結局、周りの言葉なんて聞く気ないんでしょ。あんたには何を言っても無駄ね」
その夜、義母が私を呼び止めた。
「ちょっと、いいかしら?」
「どうしました?すぐ部屋に行きますね」
「いいのよ。ちょっと、文章で残したくて」
「文章に?」
「あのね、あなたにずっと伝えたかったことがあって。私ね、あなたが裕介と離婚しても、あなたは私の娘と変わらないと思ってるわ。だから、自分の人生を生きていいのよ」
「お母さん、一体何を――」
「私があなたに介護を押し付けたせいで、あなたの人生を奪ってしまった。それが申し訳ないのよ」
「そんなことないです。私、お母さんのそばにいたくて介護を引き受けました。お母さんは、両親のいない私にとって、本当の母親のような人ですから」
「ありがとう。でもね、もう十分よ。あなたには幸せになってほしい。私のことは気にしないで、自分のために生きて」
「お母さん……」
「あのバカ息子は、あなたの苦労に気づいていないわ。そんな人と一緒にいる意味はないのよ」
「いつから気づいてたんですか?」
「娘のことよ。母親が気づかないと思ったの?あなたの優しさにはたくさん救われたわ。だからね、もうこれ以上苦しんでほしくないの。娘の幸せを願うのは、母親の役目だからね」
「ちゃんと裕介さんと話し合ってきます。大事なことですし」
「分かったわ。でも、これだけは忘れないで。この家の人間はみんな、あなたの味方よ」
数日後、私は裕介に切り出した。
「ちょっと話があるんだけど」
「何?」
「あのさ、はっきり言うわ。お前といるのは、正直限界」
「はい」
「親の介護してるくらいで俺に恩着せがましく言って。俺はもう自由になりたい。離婚してくれ」
「自由に?どういうこと?」
「俺は仕事しながら、十分すぎるほど介護してるだろ。それなのに、お前は俺に介護しろ、介護しろって、負担を押し付けてきやがって。お前みたいな人の心がない奴と一緒にいたら、俺が潰れる」
「ちょっと待って。あなた、介護なんてしてないでしょ」
「はあ。そうやって俺のやってること否定するのかよ。それとも、俺は苦しんで当たり前だって言いたいのか。お前といたら、俺はいつか倒れちまう」
「でも、私と離婚したら、介護はあなたがすることになるのよ」
「実は、今いい感じの人がいるんだ」
「へ?」
「もちろん付き合ってないし、浮気もしてないけど、彼女、介護経験もあるし、働くの嫌だなとか愚痴ってたんだよ。だから、俺が養って、彼女が介護する。それが一番いい形だと思うんだ」
「何よ、それ」
「彼女と再婚して、二人で介護する方がいいに決まってる。俺だって幸せになる権利があるんだよ」
「そう、そういう考えなのね。分かった。離婚しましょう」
「う、即決?」
「うん、いいよ。別に引き止める理由もないし」
「よっしゃ」
「あなた、自分の状況分かってるの?」
「まあ、最初は少し大変だろうけど、母さんも姉貴も俺の味方だし、余裕だろ。なんやかんや家族だからな」
「そう。それじゃあ、頑張ってね」
「じゃあ、手続きしよう」
「え、そうしましょう。明日にでも役所に行くわね」
「え、早くねえか?」
「早い方がいいでしょ。お互いのために」
「まあ、そっか」
「話し合いは後日で、その方が良さそうだから」
一週間後。
「ねえ、ちょっと、裕介。妻がいなくなって、あなたがご飯を作ってるんでしょ?味が薄いわよ」
「え、そう?塩分控えめにしたんだけど」
「あなたが意外と家事ができることには驚いたけど、こんなまずいもの食べられないわ。妻はちゃんとやってたのに」
「ちゃんとって、一応作ってるだけいいじゃん」
「それはそうなんだけど、全部中途半端なのよ。洗濯物の畳み方も雑じゃない?タオルはこう畳むものでしょ?」
「いや、畳めてるじゃん」
「妻はちゃんとやってたわよ。丁寧にね。掃除も手を抜いたでしょ。部屋の隅にほこりが残ってるわよ」
「そんな最初からできるわけねえじゃん」
「あら、あなた、私の介護をしてたのでしょ?妻に『俺は介護してる』って言ってたそうじゃない?」
「それはその、つまり――」
「あなたには介護経験があるのよね。それなのに、こんな半端な状態だなんて、恥ずかしくないの?」
「介護してもらってて、そんな言い方ないだろ。何なんだよ」
夜中、義母が呼んだ。
「裕介、トイレに連れて行ってちょうだい」
「またかよ。これ毎晩あるの?おむつとかあるだろ」
「なら、あなたがおむつを替えてちょうだい」
「はあ。なんでそんなことまで?」
「それが介護だからよ。あなたは今まで何も知らなかったのね。妻はこれを14年間やってくれてたわよ。一度も文句を言わずにね」
「でも、俺仕事あるし、明日早いんだけど」
「妻も仕事してたわよ。介護しながらね」
「いや、あいつ仕事やめてたじゃん」
「やめたのではなく、在宅でできるところはやってたわ」
「そ、そんなこと一言も言ってなかったぞ」
「在宅なんて、家にいるんだから無職と変わらない」
「そう言って話を聞かなかったのは、あなたよ」
数日後、裕介は義母に愚痴った。
「もう嫌だ。こんなに辛いなんて。毎日クタクタだ。こんなはずじゃなかった」
「こんなはずじゃなかった?それはこっちのセリフよ」
「あ、何言ってんだよ、母さん」
「私は散々あなたに言ったわよね。もっと妻とちゃんと関わりなさいって。きちんと彼女を見ていれば、妻の苦労は分かったはずよ」
「見るのとやるのとじゃ違うじゃん」
「いいえ。あなたは毎回『やってる』って言い張って、聞く耳を持たなかった。だから介護を甘く見てたの。妻はね、実家がもうないの。頼れる人が誰もいないの。それでも14年間、文句一つ言わずにやってくれた。あなたは自分の母親のために何をしたの?風呂に連れて行って、ご飯運んで、そのレベルで介護してると思ってたの?もちろん、あなたのやってくれたことには感謝してるけれど」
「なら、今も感謝しろよな」
「妻はそれ以上の負担を、文句も言わずにやってくれたのよ。血も繋がってない私のためにね。なのに、あなたは『介護恩着せがましい』と言ったそうね。妻の前でよくそんなことが言えたわね。本当に情けない息子ね。あなたを産んだのは私だけど、今のあなたを見てると、母親として恥ずかしいわ」
数日後、朝子さんから電話があった。
「あのさ、裕介、来月から仕送り、今までの7割にするね」
「はあ?なんで急に。そもそも今まで必要な費用の9割は私が出してたわよね」
「姉ちゃんは家庭あるし、大変だからな」
「ねえ。だから金銭的な支援はむしろ当然と思ってたわ。でも、9割払ってたのは、妻がいてくれたからよ。息子なんだから、介護は当然でしょ。だから7割に減らすの」
「はあ?意味分かんねえ」
「介護義務があるのは実子のみ。義務のない妻だからこそ、私はお金を出してたの。でも、あんたはそれを当たり前と思ってたんでしょ?他人の介護なんて、お金をもらわない限り誰だってやらないわよ」
「そんな、今でも正直きついのに。会社でも遅刻増えてきてるし、俺だってちゃんとやってるんだよ」
「なら、具体的に何をやってるの?通院は何曜日に行ってる?薬は何種類飲んでる?」
「それはその――」
「答えられないでしょ?そりゃそうよね。聞いたわよ。あなた、途中で投げ出して、ヘルパーさんに頼みっぱなしだって」
「知ってたのかよ」
「もちろん、それが悪いとは言わないわ。プロに頼むのは正しい判断よ。でも、頼んでるだけで、自分で介護してないくせに、それで『俺は頑張ってる』っておかしくない?」
「姉貴には関係ないだろ。それに、介護してないなら金くらい寄越せよ」
「関係あるよ。私がお金を入れてきたのは、妻への感謝だったから。あんたへの援助じゃなかったのよ。最初から。あんたは息子なんだから、母親の面倒を見るのは義務なの。むしろ今まで他人に押し付けてたんだから、自分の責任くらい果たしなさいよ。根を上げるのは、きちんと介護してからにして」
数日後、裕介はまた朝子さんに電話した。
「姉ちゃん、正直もう無理かもしれない。仕事も介護も家事も全部一人でやってて限界で。ヘルパーも高いし、遅刻のしすぎで会社でも信用失いそうだ。姉ちゃんは介護師なんだからさ、少し助けてくれないか?」
「そもそも考えが甘いのよ。あんたは離婚して自由になりたかったんじゃないの?職場にいい感じの人がいたって聞いたけど、うまくいったの?」
「断られた。母さんを施設に入れられなくて、彼女も介護は無理だって」
「そう。介護から逃げるために離婚したのに、介護は重くなって、新しい出会いも消えた。自分で招いた結果だよ」
「でも、姉ちゃんはプロなんだから、俺より絶対うまくできる。少しだけでも、一週間くらい変わってくれれば、俺も体勢立て直せる。頼むよ」
「一週間ならいいわよ。でも、あんたの魂胆は見え見え。一週間とか言って、私に介護をずっと押し付けるつもりでしょ?」
「そんなつもりは――」
「あんたって昔から変わらないね。困ったら誰かに丸投げして逃げる。小学校の夏休みに友達と殴り合いの喧嘩をした時、あんた私のせいにしたわよね。そのせいで私は『暴力女』っていじめられたのに。あんたは知らん顔。中学の時も、テストの点数が悪いのを『姉ちゃんが間違ったことを教えた』って噂にして。高校の時は、彼女に振られたのを『私が余計なこと言ったせい』にしたわよね。自分が困ったら人のせいにして、本当に自己中心的。社会人になってからもずっとそうじゃない?」
「う、そんなことねえよ」
「現に、妻に14年間介護を投げてたじゃない。で、限界になったら私に投げるってわけ?」
「それは――」
「私は確かに遠くにいて介護ができない。だから、あんたの今の介護に文句を言う資格はないわ。でもね、今まで介護してくれてた妻に対して、あんたは何をしたの?『女の仕事』だって笑ってたんじゃないの?妻に謝れとは言わない。もう遅いから。ただ、自分でやるしかない。これ以上私に連絡しないで。姉として、娘として最低限のことはするけど、今のこの状況はあんたが招いたことなんだから」
翌日、裕介は元妻に電話をかけた。
「助けてくれ、妻。俺もう本当に限界で。母さんの介護、正直こんなに大変だと思わなかった」
「お姉さんから、あなたが限界そうだって聞いて、一時的にブロックを解除したわ。それにしても、今更の発言ね」
「お前がいた時は、全部当たり前みたいに回ってたのに。お前、どうやって回してたんだ?コツとか?」
「コツ?」
「うん。なんか効率よくやる方法とかあったんじゃないかと思って。お前は器用だったから、俺には無理なんだよ」
「ねえ、あなた、私が器用だからうまくできてたと、本気で言ってるわけ?」
「だって、お前うまくやってたし」
「あのさ、私が何度あなたに『助けて』って言ったか覚えてる?14年間よ。私は何度もあなたに助けを求めた。でも、その度にあなたは『家にいるんだから』『女の仕事だ』って言って、まともに話し合いすらしなかった。それどころか、少しの手伝いで『俺はやった』って言い切って、介護してるって思い込んでたでしょ」
「でも、それなら14年も我慢してたのおかしいじゃん」
「私も介護自体は大変だったけど、嫌じゃなかったわ。血の繋がらない私を可愛がってくれたお母さんへの感謝で続けて来れたから。でも、あなたと私は夫婦だったでしょ。もっと協力してほしかった。もっと私を見てほしかった。14年間、私の介護を見てたくせに、今更コツを聞く立場なの?」
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない。ただ、一つだけ言わせて。あなたが『よっしゃ』って喜んだ日に、私は『自由になった』って思ったの。あなたが自由になりたいって言った時、私も同じこと思ってたのよ。14年間、夫婦で支え合いたかったのに、あなたは私を一人にした。お母さんは優しかったし、朝子さんも理解してくれたわ。でも、あなただけは最後まで私を見てくれなかった。私がどれだけ疲れていても、どれだけ助けを求めても、あなたは自分のことしか考えなかったじゃない。『仕事が忙しい』『疲れてる』って。それは私も同じだったのに、あなたは聞く耳を持たなかった」
「俺、反省してるんだ」
「もういいわ。こうやって謝るのも、よりを戻して介護を押し付けたいからでしょ。でも、あなたはこれから、私が14年間やってきたことを全部一人で味わうのよ。それが、あなたが選んだ自由よ。自由になりたいって言ったのは、あなたでしょう。そろそろ、もう連絡しないで。私には新しい人生があるから。あなたにはもう関係ないの。これ以上時間を無駄にしたくない」
「でも、収入はどうなるんだよ」
「はい?今更何?」
「俺の方が稼いでただろう。今更社会復帰しても、そんな稼げないし」
「私ね、今、介護用品を扱ってる会社で営業をしてるのよ」
「え、営業?」
「ええ。14年間の介護経験を生かしてね。現場で思ってた以上に使えるみたい。お客様との会話も弾むし、実体験から来る言葉は説得力が全然違うのよ」
「だからどうしたんだよ」
「私の営業成績、実は社内トップなの。そのおかげで、今は新人育成もしてるし、管理職の話も出てるわ」
「う、そんなお前が――」
「で、あなたはどうなの?聞いたわよ。最近会社で遅刻が増えてるって。まあ、納得だわ。だって、あなた何をしても中途半端だもの。そんな人が会社で必要とされるのかしら」
「俺は、俺は仕事が――」
「その仕事だって、今は私の方が上よ。分かった?あなたは都合のいいところしか見ず、現実を見てなかったの。いい加減、夢から覚めなさいよ。あなたが離婚を口にしたその日から、私にとっての悪夢は終わったんだから」
数日後、元妻は朝子さんと会っていた。
「さん、最近調子どう?」
「朝子さん、こんにちは。今は順調です」
「そうみたいでよかった。仕事でも成果出てるんでしょ?裕介のやつ、唯一マウント取ってた仕事でもあなたに負けて、かなり堪えてるみたい」
「あの、お母さんは無事施設に入れたよ。元から探してたみたい」
「施設っていうか、有料老人ホームだけど」
「そうですか。よかった。こうなることを予想してたみたいだからね。さんだって、お母さんのこと気にかけてくれてたから。これで後ろ髪引かれることもないでしょう」
「そうですね。ようやく前を向いていけます」
「改めて、14年間、本当にありがとう。俺だけでは済まないのは分かってるのだけど」
「何言ってるんですか?お姉さんが転職先を紹介してくれて、私も生活が安定したんですよ。お金のこともそうですし、十分すぎます」
「十分じゃないわよ。介護は大変なんだから。これからは自分のために生きてね。さん、家族のことは私たちで何とかするから」
「はい。ありがとうございます」
「でも、お母さんの面会には行ってもいいですか?」
「もちろんよ。きっと喜ぶわ」
その後、裕介は介護から解放されたが、老人ホームのお金は払わなければならず、諸々の手続きもすべて裕介が窓口になっている。せっかくの休日も手続きで消えていくのだとか。さらに、一度落ちた信用は元に戻らず、給料も上がらず、会社でも浮いていると聞く。一通りの家事はできるものの、今まで全て妻に丸投げしていたことから生活水準は下がり、離婚での財産分与もあり、貯金はほぼない。かなり苦しい生活をしている。
一方、元妻は仕事で成果を上げ、管理職に就いた。14年の介護は確かに大変だったが、その経験は決して無駄ではなく、かけがえのない自分の財産だ。そう思えるだけでも、自分は幸せ者だと思う。



