大地のスマホから浮かれた声が聞こえた。残業だと言っていたのに、今は新しくできた居酒屋のトイレにいるらしい。私は震える声で、友人に見た光景をそのまま口にした。大地が知らない女とホテルに入っていくのを。飲み会で酔った同僚を介抱していただけだと言う彼に、私は自分でも驚くほど冷静に問い詰めた。ホテルに介抱で連れて行くことはないだろう、と。開き直った彼は、男女でラブホに入って何もないと思う方がおかしい、と言い放った。
私は再婚してまだ三年しか経っていない。娘のみゆが大学に合格した、その直後だ。家族みんなでお祝いしたばかりの、本当にその矢先だった。私が何と言ったって、彼は家族を顧みない。みゆはもう十八だから理解するだろう、と。血のつながらない母親の私には、実の娘の気持ちが分からないのだと言いたいのだろう。彼は続けた。みゆはこういうのには慣れている、と。前の妻、みゆの実母と離婚したのも、彼の不倫が原因だったことを、その時初めて知った。私は教育方針の違いだと聞かされていたのに。彼は笑いながら言った。正直に不倫のせいだと言って、私が結婚するわけがないだろう、と。
そして、彼はとどめの一撃をくれた。みゆの学費のために貯めていた三百万円。それを、不倫相手と始める店の資金に使ってしまった、と。すぐに支払いが必要な学費なのに、彼は何の悪びれもなく言う。俺とあいつの夢の店だから理解してくれ、と。みゆには私から謝っておいてくれ、と。そのお金は私が独身の頃から貯めてきたものだと訴えても、彼は鼻で笑うだけだった。共有財産だから俺がどう使おうが自由だと。いつか一緒に店をやりたいと言っていたのは、私とだったのに。彼は言った。最初からお前とする気はなかった、と。そして、私が長い時間をかけてこつこつと書き溜めていたレシピまで持ち出すと言った。今日からそっちの家には帰らない。後のことは全部任せた、と。
私は仕事帰りに、同じシフトのみゆに全てを打ち明けた。電話越しのみゆは、最初こそ笑っていたけれど、話を聞くうちに口調が変わっていった。三百万もの学費を使われて、実の父親に裏切られて、それでもみゆは冷静だった。そして、私に信じられないことを言った。一年だけ時間をくれないか、と。その一年で何をするのかは教えてくれない。悪いようにはしないから、とだけ言って。私は、騙されたと思って、その一年を彼女に預けることにした。離婚も禁止だと言われて、この混乱の中で、私は深く考えずに頷いていた。
一週間後、みゆが家に来た。いや、もう家ではないのかもしれない。別居している私は、みゆが実の父親と会っているのが気がかりだった。彼は、みゆに店の宣伝を頼んでいた。フォロワーが一万人もいる有名なインフルエンサーだから、と。彼は言った。娘が下品なダンス動画を上げているのは恥ずかしい、とも。それでも、その恥ずかしい娘の影響力が、今の自分には必要だった。みゆは嫌がりながらも、宣伝すること自体は引き受けた。それは単に、自分に降りかかった火の粉を払うためだったのだろう。でも、私にはその時の真意が分からなかった。彼は自分の経営センスを誇り、みゆのフォロワーに頼むことを当然のように思っていた。
それから一年が経った。彼の店は確かに繁盛していた。私のレシピと、みゆの SNS 効果で。彼は年に何度も私に連絡をしてきたが、それはいつも金の話と、法的手段に出るなら出てみろと挑発する言葉ばかりだった。三百万円は私個人の財産だと訴えても、彼は聞く耳を持たなかった。泣きついてきたのはそっちだろう、と。別れを告げるどころか、自分から離婚を求めなかった私を、未練があると勘違いしていた。彼は言った。俺はいつでも離婚してやってもいいぞ、と。それは、まるで私が彼にすがっているかのような物言いだった。彼の店は、一周年を迎えていた。
その日、彼はご機嫌だった。みゆへの感謝と、自分の才能を褒めちぎっていた。だが、みゆの返しは冷たかった。ゆ香さんのレシピを盗んで、私のフォロワーに便乗しただけだと。それは彼にとって、自分の成功を否定する許せない言葉だった。だが、みゆはさらに続けた。SNS での店の評判は、実は散々だと。女店員の愛想が悪いというレビューが多く、その女店員こそが不倫相手だと。炎上は、もう始まっていた。みゆは言った。私に任せて、評価は逆転するから、と。何を言っているのか分からない私の前で、彼はスマホを見て顔色を変えた。
数日後、彼の店の炎上は、想像を絶するものになっていた。みゆが彼と、そして彼と不倫相手の LINE のやり取りを、全てSNS に公開してしまったのだ。娘の学費を奪ったこと、レシピを盗んだこと、すべてが明るみに出ていた。彼は怒鳴り散らした。みゆに責任を取れ、すぐに何とかしろ、と。しかしみゆは、動じなかった。一言も嘘は言っていない、と。そして、彼にこう言った。私が経営学部を選んだ理由を知っていますか、と。実の母親が、今も入院と退院を繰り返していることを。彼に捨てられ、不倫を繰り返されて心を病み、体まで壊して働けずにいることを。みゆは彼に見捨てられた母を助けるために、お金を稼ぎたかった。必死に勉強して、あの下品だと笑われたダンス動画も、すべてそのためだった。彼は叫んだ。俺を巻き込むな、と。それは、長年娘を顧みなかった男の一言だった。
その時になって、私はようやく理解した。全ては一年前から、いや、五年前から、みゆが計画していたことだと。私に一年の猶予を求めたのは、あの三百万円を奪い返し、彼からそれ以上のものを引き出して、人生を変えるためだったのだ。私は、自分の知らないところで、みゆの復讐の駒にされていた。彼に、慰謝料と延滞金を請求するために、離婚せず婚姻関係を続けるために、私は利用されていた。みゆはあの日、土下座して私に頼んだのだ。全てを話して、力を貸してほしいと。私は、怒りよりも深い悲しみの中で、彼の末路を想像した。
みゆの弁護士から、彼に請求書が届いた。私の三百万円の返済に加え、延滞金、そして不倫による慰謝料。さらに、別居期間中の婚姻費用まで加算され、総額は七百七十万円になった。彼は、炎上で下落した店の価値を考慮し、その店を私に売る道を選んだ。炎上騒動で彼は全てを失った。みゆは言った。お父さんを捨てたのは、ずっと前から決まっていたことだと。ゆ香さんを利用させてもらったのは、お詫びするから、と。私は、この三年間、あの子の母親だった。だから、それでいいと思えた。
あれから一ヶ月が経った。私は彼から譲り受けた店のオーナーになっていた。みゆは私の店を宣伝し、アルバイトとしても働いてくれている。彼女は人気者で、お客さんも増えた。「看板娘」と呼ばれる彼女に、実の娘がいるようで少しだけ寂しくもあるけれど、私は毎日を一生懸命に生きている。みゆの実の母親も、退院して一緒に暮らせるまでに回復したそうだ。当たり前のことかもしれないが、私もみゆの「もう一人の母」の一人でいられたらと思う。私のレシピと、私自身が、こうして彼女の生活の糧になっていることが、今は誇らしい。彼と別れて、私は大きなものを見失ったけれど、もっと大きなものを手に入れたのかもしれない。



