仕事中に母から電話が来た。通知がうるさくて無視したけど、何度も鳴るから仕方なく出た。「緊急事態だからすぐ帰ってきなさい」って。どうせ大したことじゃないと思った。帰宅すると、母の部屋が荒らされていた。服もアクセサリーも消えていた。そして、亡き父の形見の指輪も。犯人はすぐ分かった。母がパートに行っている間に、俺の嫁が売ったんだ。「ブランドバッグが欲しかったから、母さんの部屋の物を売ればいいって俺…

仕事中に母から電話が来た。通知がうるさくて無視したけど、何度も鳴るから仕方なく出た。「緊急事態だからすぐ帰ってきなさい」って。どうせ大したことじゃないと思った。帰宅すると、母の部屋が荒らされていた。服もアクセサリーも消えていた。そして、亡き父の形見の指輪も。犯人はすぐ分かった。母がパートに行っている間に、俺の嫁が売ったんだ。「ブランドバッグが欲しかったから、母さんの部屋の物を売ればいいって俺...

母さん、仕事中に電話してくるなよ。通知がうるさいんだよ。

「緊急事態だからよ。すぐ帰ってきなさい」

「ああ?なんだよ、緊急事態って」

「泥棒よ。私の部屋が荒らされて、服もアクセサリーも持っていかれたの。お父さんの形見の指輪もよ」

「なんだ、そんなことかよ。焦って損したわ」

「え?どういうこと?シ太、あなた何か知ってるの?」

「ミカがブランドバッグ欲しがっててさ。金がないから、母さんの部屋の物を売って買えばって言ったんだよ」

「嘘でしょ?じゃあ、あの指輪はミカさんがもう質屋で売って、ブランドバッグになったって言うの?」

「そうだよ。母さんがパートに行ってる間にさ。本当に最低だよ」

「あれは私とお父さんの思い出の指輪だったのよ」

「思い出で飯が食えるかよ。むしろ感謝してほしいわ。断捨離だろ。古臭いゴミ持っててもしょうがないし、部屋も片付くし、嫁も喜ぶ。SDGsってもんだよ」

「あなたって子はどこまで…。これは窃盗犯罪よ」

「はいはい。じゃあ警察に行けばいいだろ。でも行く気もないくせに何言ってんだか。母さん、親父の遺影に言ってたもんな。『これからは太のことを私が守る』って。見守ってる息子が警察のお世話になるなんて、親父もあの世で泣くわ」

「だとしても、ないでしょ!普段から文句しか言う脳がないんだから黙ってなさいよ」

「文句を言うだけのババアに支えられてるのは誰だ?俺たちの借金含めて、毎月五十万払ってるのは俺だぞ」

「そうね。ご苦労さん」

「その『ご苦労さん』は違うだろ。俺が払ってやってるんだぞ」

「だから『ご苦労さん』って言ってるのよ。あなたたちが泣きつくから仕方なく払ってるだけ。これが支えてもらってる側の態度?」

「LINEでもうるさいババアだな。借金返済ももう来月で終わりだろ。ならもういいじゃん」

「そういう問題じゃないでしょ」

「そんなに嫌なら家から出て行けば?」

「この家は私とお父さんの家よ」

「親父はもう死んでるし、母さんももう六十手前だろ。すぐに俺のものになるんだから、俺の家だよ。借金返済が終わったらもう住み着きも終わりだしな」

「もういいわ。話にならない」

「あ、出て行ってくれるの?助かるわ。少しの間、親戚の家にでも泊まるから。今あなたたちと顔を合わせたら手が出そうだからね」

「ババアのへなちょこパンチなんか怖くないけどな。その間、広々使わせてもらうわ」

「二度と帰ってこなくてもいいからね」

数日後。

「母さん、この間はごめん」

「は?シ太が私に謝る?明日は空から槍でも降ってくるのかしら」

「勘弁してくれよ。母さんが親戚の家に行ってからさ、俺たちも反省したんだ。ミカも、親父の形見を売ったのはやりすぎだったって言ってた。母さんが怒ったのも無理ないよ」

「それで謝って終わりにするつもり?あの指輪はもう帰ってこないのよ」

「分かってる。けど、このままってのも後味悪いだろ」

「後味が悪いって分かるの?そこまで立派には見えないけどね」

「そういうトゲトゲした態度やめろよ。こっちが歩み寄ろうとしてるんだから」

「随分と上からなのね。それが反省してる人の態度?」

「悪かったよ。だから罪滅ぼしをさせてほしい」

「罪滅ぼし?」

「母さんの将来のことを、ミカと真剣に話し合ったんだ。母さん、もうそろそろ限界だろ」

「何がよ」

「還暦間近なのにパートして、家のことも全部やって、しかも家は無駄に広い。しんどいんじゃないか?」

「あなたたちが老後の世話を一切しないし、家事も全く手伝ってくれないからね」

「でさ、母さん、施設に入ったらいいんじゃないか」

「は?施設?」

「将来を考えてみろよ。これから先、母さんの介護が必要になるかもしれないだろ。俺たち素人がやるより、プロに任せた方が絶対いい」

「だからって施設?私はまだ病気もないし、健康よ」

「そういう人の方が危ないんだよ。いつも健康だった人が急に…って話は聞いたことあるだろ」

「だとしても早すぎるわ。いずれ入るにしても、今じゃなくてもいいはずよ」

「俺は母さんが心配なんだよ。この提案だって母さんのためにしてるんだぞ」

「単純に私を家から追い出したいだけでしょ」

「そんなわけあるか。今回もそうだけど、今まで母さんには迷惑かけてきた。だからこそ、今のうちに親孝行がしたいんだ」

「その施設代はどこから出るの?」

「それは母さんだろ」

「親孝行なのに私が払うの?」

「その代わり、施設を探したり手続きはこっちでやるよ。ほら、親父の親友だった健一さんを覚えてるか?」

「ええ。確か不動産を経営されてるのよね」

「その健一さんが、うちを売るのを手伝ってくれるんだ。土地や家を売れば、一億以上の値がつくって」

「ああ、そういうこと」

「なんだよ」

「つまりお金が欲しいってことね」

「違うよ。俺は母さんを心配してるだけだ」

「家の名義人は母さんなんだから、金は母さんのものだろ。それはそうね。健一さんなら信用できるし…。分かったわ。少し考える時間をちょうだい」

「了解。前向きに検討してくれよ。あ、そうだ。ミカが仲直りに三人で食事したいってさ」

「それも検討しておくわ」

「オッケー。伝えとく。じゃあな」

数日後。

「母さん、施設と家の件なんだけどさ、そろそろ答えを決めてくれ」

「まだ考えてるわ。というか、どうして前向きな答えばかり求めるの?」

「あ、いや、限定ってわけじゃないけど、いくら何でも時間かけすぎだろ」

「まだ数日よ。人生の一大事を決めるんだから、短いわよ」

「急いだ方がいいんだって」

「どうして?」

「健一さんが言ってたんだけど、早めに売らないと家の価値が下がるんだって」

「すぐに売るって話じゃないでしょ」

「健一さんが急げって言ってるんだぞ。不動産のプロが言うことを疑うのか?」

「私は直接健一さんと話してないからね」

「そのプロから俺は直接アドバイスをもらってるんだ。素人の母さんは俺の言うことを聞いてればいいんだよ」

「反省して親孝行しようとしてる人の態度がそれ?」

「母さんが話を聞かないから熱くなっただけだよ。とにかく今すぐ決めないとダメなんだ」

「何それ?怪しすぎるわよ」

「実の息子が母親のために意見してやってるんだぞ。そうやってひねくれてないで、素直に聞けよ」

「『してやってる』ね。じゃあ質問していい?」

「ああ、なんだよ」

「どうしてさっきから、家を売ることばかり気にしてるの?」

「家を売った金がないと、施設に入れないだろ」

「あります」

「え?」

「家だけがうちの資産じゃないのよ。そもそも毎月五十万も貯蓄に回してるんだもの。それをやめれば十分出せるわ」

「母さんにはいい施設に入ってほしいんだよ。だから毎月五十万じゃ足りないんだ」

「そうなの?」

「ああ、そうなんだよ」

「でも私は安い施設でも構わないわ。だから問題ありません」

「ふざけんなよ。こっちが下手に出てりゃ調子に乗りやがって」

「あら、優しい息子ごっこはもうおしまい?必死な顔のあんたを見られて楽しかったけどね」

「そっちがその気なら、俺ももう遠慮しねえ。いいからさっさと施設に入れ」

「いやよ」

「怖いわね」

「あのな、こっちはもう限界なんだよ。生活態度がどうの、金の使い方がどうの、いちいち文句言われて。俺の金だぞ。どう使おうが俺の勝手だろ」

「ミカも言ってたぞ。『お母さんと暮らすの、私も限界』ってな」

「いいそうね。あの子、頭空っぽだから」

「俺もミカとどうやって別れるか、真剣に考えてるんだよ。ていうか、施設にはもう話をつけてある。明日からそこへ行け」

「いいな?」

「今日はシ太、仕事、休みなんだもんね。大事な休日を使って、そんなことしてたの?」

「これは決定事項だ」

「私が納得してないのにできると思う?」

「無理やりにでも連れて行って、叩き込んでやるからな」

「親の気持ちが分からないのね。あなたたちがいつまでも子供でダメだから、私は心配で施設に入ってる余裕なんてないのよ。それとも何?抵抗する私を無理やり連れて行って、警察沙汰にしたいの?」

「母さんは警察呼ばないだろ」

「施設の方は?他の入居者の方は?抵抗する私を見て、誰も止めてくれないとでも思ってるの?それに、そもそも私の同意もなく施設側が了承するはずないわ。どうせまだ確定にはできてないんでしょ」

「そ、それは…」

「私を連れて行って、なし崩し的に同意させようって魂胆ね。見え見えよ。出直しなさい、バカ息子」

三十分後。

「おい、健一さん、どうなってんだよ」

「どうなってるって、何がかな?」

「あんた言ってたよな。『母親思いな息子のふりをすれば簡単だ』って」

「ああ」

「もしかして施設への入居のことかい?」

「そうだよ。あのババア、全然言うことを聞かないんだ」

「まあ、一旦落ち着きなさい」

「これが落ち着いてられるか。このままじゃ俺の億万長者の夢が…」

「ミカさんから聞いてるよ。君たちが安代さんに残された形見を売ったって」

「親父の形見の指輪を売ったけど、それが何だって言うんだよ」

「冷静に考えなさいと言っているんだ。自分の亡くなった夫の形見を、勝手に売られたんだぞ。いくら息子相手とはいえ、許せることじゃない」

「それは…でも謝ったし」

「実際に指輪を買い戻して返したのか?」

「もう売れちゃってて、無理だったんだよ」

「謝罪の言葉だけで許されると思うのかい?」

「どう言っても、まあこれに関しては終わったことだ。私が君に話を持ちかける前のことだしね。今さらどうしようもない」

「ちょっと待ってくれよ。俺の金は億万長者になれるんじゃなかったのか」

「だから落ち着けと言ってるんだ。その点については、まだ手がある」

「本当か?」

「忘れたのかい?私は君の父親、幸介の親友なんだ。安代さんとの交流だって深い。私の言葉なら、きっと彼女も聞いてくれるはずだ」

「そうか。そうだよな」

「私が直接安代さんと話をしよう。施設に入った方が、彼女にとっても得だと伝えるよ」

「健一さん。それで本当に一億以上の金額になるんだよな?」

「シ太君、私はこれでも不動産会社の社長だ。物件を見る目には絶対の自信がある。あの家と土地なら、間違いなく一億を超える値がつくよ」

「そっか。よっしゃ。あとは…母さんのためって言って、代理人カードを作らせれば」

「それも私の方から安代さんに言っておこう。年齢や将来のことを考えて、管理を任せたらどうか、とね」

「そうなりゃ、家の金が全部俺の自由になる」

「今から興奮が止まらなくなってきた」

「まだ安心するのは早いよ」

「え?まだ何かあるのか?」

「私が説得すると言っても、君たちの態度も重要だ。今のうちに安代さんに反省してる様子を見せておくんだ。不利でいいからね」

「了解。健一さん、マジで頼むな。うまくいったら分け前くらいは用意するからさ」

「それはいいね。楽しみにしておくよ」

一週間後。

「健一さんから話を聞きました」

「おや、来たか。てことは母さんも心を決めたってことか」

「そうね。健一さんの話を聞いて決めたわ。あなたの言う通り、施設に入って家は売る」

「やっぱりプロの言うことは聞くべきだもんな。母さん、いい判断だと思うぞ」

「そうかもね」

「それでこれからの手続きは、健一さんが言うにはあなたがやってくれるんでしょ。施設にもすぐに連絡するし、家のことも健一さんが手配してくれるはずだ」

「それだけか?」

「何言ってんだよ。一番忘れちゃいけないのが代理人カードだろ」

「ねえ…代理人カードって、本当に作らないとダメかしら?」

「ダメに決まってんだろ。これは母さんのためでもあるんだぞ」

「私のためね」

「施設に入った後、支払いはもちろん、何か用がある時に手続きが必要になるだろ。それを俺が代わりに引き出して用意するんだ」

「別に、施設にいても自分でできるわよ」

「それがいつまで安心してできるんだって話だよ。認知能力の確認が取れないと作れないんだぞ」

「らしいわね。代理人カードを悪用されないための予防策でしょ」

「だからこそ今作っとかないと、後で大変なんだ。その時困るのは俺じゃなくて母さんなんだからな」

「つまりシ太は、私のためを思って言ってくれてると?」

「何度もそう言ってんだろう。それじゃあ早速、明日仕事を休むからさ、さっさと作りに行こうな」

「最後にこれだけは聞かせて」

「最後って何だよ。大げさだな」

「本当にこれでいいの?この先どうなっても後悔はしないわね?」

「はあ。何を言うかと思えば。当然だろ。後悔なんてしねえよ。むしろもっと早くこうしとけばよかったわ」

「そう…それがあなたの本心なのね」

「母さんは施設で楽々生活。俺とミカもウザいババアから解放されてすっきり。まさにウィンウィンってやつだな」

「そうね。本当に残念だわ」

「ウィンウィンって言ってんだろ。湿っぽい空気出してないで、明日は頼むぞ」

「ええ、大丈夫。もう決心はついたから」

「安心したよ。じゃあよろしくな」

一ヶ月後。

「シ太君、ようやく終わったみたいだね」

「健一さん。そうなんすよ。ついにここまで来たかって感じっすわ。安代さんも無事に入居したし、君のご実家も無事に売却できた。私も肩の荷が下りた気分だよ」

「さすが健一さん。仕事が早い。で、どうだったんですか?家の売却金額はいくらになりました?」

「非常にいい物件だったからね。細かい金額は省くけど、一億五千万で買い手がついたよ」

「一億五千万?」

「え?それマジの話ですよね」

「マジもマジ、大マジな話だよ」

「うわあ、マジか。なんか大金すぎて実感が湧かないっす。これ、夢じゃないんすよね」

「ああ、間違いないよ。その金額はきっちりと安代さんの口座に振り込んであるしね」

「来た。これマジで最高。これから一生遊んで暮らせるじゃん」

「それだけの金額ではあるね」

「実は俺、ついさっき辞表を出してきたんすよ」

「それはまた気が早いんだね」

「だからこの時間にも連絡がついたのかな」

「そういうことっす。いやあ、健一さんを信じてよかった。これで車の支払いもできるわ」

「うん。車の支払い?今朝辞表を出して、すぐ車を買いに来たんすよ。どうせ大金が入るから、一足早いお祝いってやつで」

「さすがに少し浮かれすぎじゃないかい?」

「ミカのやつも今頃、色々と買い漁ってますよ。あいつ、ブランド品をポチりまくってたんで」

「まあ君たちのことだから、好きにすればいいと思うけど。そんな一気にお金を使って払えるのかな?」

「いや、何言ってんすか?たった今、俺とミカは億万長者になったんすよ。車一台の六百万やブランド品くらい、一括払いしますよ」

「君は何の話をしてるんだい?」

「何?一億五千万の話だけど」

「それは安代さんのお金だよね」

「けど代理人カードがあれば、実質俺の金でしょ」

「残念だけど、その代理人カードはただのプラスチックだよ。お金なんて一円も引き出せない。ちょっと頑丈なだけのゴミだね。ああ、すでに安代さんが利用停止にしてあるはずだからね」

「はい?今なんて言いました?」

「そもそも勘違いしているようだね。私は一度も、その金が君のものになるなんて言ってないはずだよ」

「は?どういうことだよ。なんで母さんが勝手に利用停止なんてできるんだ?これは俺のカードだぞ」

「代理人カードはあくまで名義人の代理で使えるだけだ。口座の名義人は安代さんだろう。彼女の一存でいつでも停止できるのは当然じゃないか」

「ちょっと待てよ。話が違うじゃねえか」

「君が勝手に勘違いして早とちりしただけさ。違うかな?」

「でも、こんなのって…俺は仕事も辞めたし、車も買ったんだぞ。ミカだって今頃どれだけブランド品を買ってるか」

「君たちが買ったんだろう。ならどうなろうと、自分たちで払うのが筋だ」

「あんた言ってたよな。俺に初めて連絡してきた時、『親友の家族を自由にしてやりたい』って。あれは嘘だったのかよ」

「嘘じゃないさ」

「じゃあこれは何なんだよ。俺をあのクソババアから自由にしてくれるんじゃなかったのか」

「私が自由にしたかったのは、安代さんだよ。あの人は、病気で亡くなった夫への誓いのせいで、自分を縛ってしまってたからね」

「嘘だ。そんなの…」

「私はね、シ太君。君の父親から大きな恩を受けたことがあるんだ」

「その恩をあのババアで返すってのかよ」

「親友から受けた恩を、私はその親友の妻に返そう。そう心に決めていたんだよ」

「俺はどうだっていいっていうのか。あんたの親友の息子だぞ」

「君は自分を冷静に客観視した方がいい。恩を返す相手くらいは、私にも選ぶ権利があるだろう」

数日後。

「母さん。頼むから連絡してくれよ。俺たちこのままじゃ…」

「本当にしつこいわね。何度も電話してきて、施設まで押しかけてきて。私はあなたには会わないって、職員さんに伝えたはずよ」

「緊急事態に息子を無視とかやめろよ」

「でもよかったね」

「は?」

「頼む。母さん助けてくれ」

「どの口で言ってるの?」

「実は会社、辞めちゃって」

「健一さんから聞いてるわ。大金が入ると勘違いして辞表を出したんですってね」

「俺はすぐに会社に掛け合ったんだ。辞表を取り消してほしいって。けど、まあ一方的に、しかも突然の辞表だからね。会社としても、そんな人はいらないんじゃないかしら」

「そうなんだよ。俺があれだけ頭を下げたのに」

「どれだけかは知らないけどね」

「で、仕事がなくなったなら、次を探せばいいじゃない」

「それだけじゃないんだ。車だって買った六百万。ミカが買い漁ったブランド品の支払いも二百万あるし」

「返品しなさいよ」

「返品不可の特約がどうとか言われたんだよ。だから返品もキャンセルもできないって」

「だったらしょうがないわね。自分たちの責任なんだから、払うしかないわ」

「それができたらこうして連絡してないだろう」

「実の母親に、お金の無心以外で連絡しないの?愛情深い子なのね」

「いや、そういうことじゃなくて」

「まあでも、そんなものかしらね。私は『文句しか言わないババア』だもの」

「だから今はそんなことはどうでもいいんだよ。それよりも頼む。俺たち、合計で八百万の支払いがあるんだ。なんとかしてくれ」

「いやよ」

「なんでだよ。今の母さんなら余裕で払える金額だろ。一億五千万も入ったんだから」

「払える払えないの問題じゃありません」

「もしかして親父の形見を売ったこと、まだ怒ってんのか?もう謝っただろう」

「謝罪で済むと思ってるの?そう言ったはずよね」

「今の母さんなら、あんなゴミ自分で買えるだろ。もっと高い指輪だって」

「は?今、ゴミって言ったの?」

「あ、いや、これは…」

「確かにあなたの言う通り、あれよりもいい指輪は買えるわね。あの指輪自体、お父さんが若い頃にくれたものだから。今の私なら、もっと高い、それこそダイヤの指輪だって買えるでしょうね。けど、そういう問題じゃないのよ。あの指輪の価値は金額じゃない」

「金額じゃないって…」

「お父さんとの思い出は、お金じゃ買えないの」

「あなたの言う綺麗事がどれだけ大事なものか、今のあなたに分かるはずもないわね」

「今はそんなのどうでもいいんだよ。頼むよ、母さん」

「良くないわよ。あなたが踏みにじったのは、私とお父さんの思い出なの」

「こんな昔の思い出と、今の息子と、どっちが大事なんだよ」

「親父への誓いを忘れたのかよ」

「その誓いを諦めさせたのは、あなたじゃない」

「あんなクズでもバカでも、息子は息子。母親にとっては可愛いのよ」

「だったら」

「でも、どれだけ可愛かろうが限度はある。それは何度も注意してきたわ。あなたに変わってほしかったから。でも、もう変わらないって気づかされた。他でもない、あなた自身にね」

「待ってくれよ、母さん。俺から変わるから。立派な息子になるから」

「『ババアのへなちょこパンチは怖くない』んでしょ?」

「は?」

「あなたとは今日限りで終わりにするわ。二度と私の息子を名乗らないでください」

「待ってくれ!待ってくれよ、母さん。ババアのへなちょこパンチでも」

「あなたを打ち負かすくらい、わけないのよ」

翌日。

「健一さん。今回は色々とご迷惑をおかけしました」

「いやいや。私はただ、受けた恩を返しただけです。きっと幸介のやつも天国で笑ってますよ」

「そうでしょうか。結局シ太を更正させることができなかったのに」

「幸介のやつは、バカがつくほど家族想いでしたから。息子がしたことは息子の責任。生きてたら、むしろ翔太君を蹴っ飛ばしてますよ」

「それはきっと、そうするんだろうなって思います」

「私は昔、会社が傾いた時に幸介に助けられました。『親友のためなら金は惜しくない』。そう言ってくれたことを、今でも覚えてますよ」

「夫はそういう人でしたからね」

「だから、今の安代さんを見たら悲しむんじゃないかな。『え、安代が笑顔じゃない?太と健一も何やってんだ』って、すっ飛んできてもおかしくありません」

「健一さん、ありがとうございます。少し元気が出ました」

「いえいえ。強いて言うなら、幸介に会いに行ってやってください。あいつへの恩で、私はあなたを助けようと思った。なら、そのお礼は幸介に伝えてやるべきです」

「ええ。また夫のところへ顔を出します」

「そうしてやるのがいいでしょう。しかし困ったなあ」

「どうしたんですか?」

「幸介が夢枕に立ちそうです。『最愛の妻が俺の墓参りに来たぞ』って、のろけられるのが目に見えますよ」

「この時は、夫によろしくお伝えください。『私は今もあなたを愛していますから』って」

その後。剛太とミカさんは多額の借金を背負い、家も失いました。ミカさんのご実家へ身を寄せたそうですが、事情を知ったご両親は激怒。すぐに二人を追い出し、ミカさんは勘当されたそうです。今は雨漏りしそうなボロアパートで、二人で暮らしているんだとか。

「こうなったのはお前のせいだ」

「いいや、私じゃない。お前のせいだ」

なんて、お互いに責任を押し付け合いながら、目の前の借金という現実から目を背ける日々を送っています。

一方で私はといえば、健一さんに言った通り夫の墓参りへ行きました。今回のことを報告し、シ太を導けなかった自分の不甲斐なさを伝えに。

その翌日の朝、健一さんから連絡がありました。本当に幸介が夢枕に立ったんですって。きっと幸介を思い出して、夢でも見たんでしょうね。私も同じ夜、幸介の夢を見ましたから。

でも、もしあれが本当に夢だったのだとしても、私はきっと夢の中で聞いた幸介の言葉を一生忘れることはありません。

「俺もお前を愛してる。どうか笑顔でいてくれ」

この言葉だけで、私はこれからも元気に日々を過ごせそうです。

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